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 2006.12.20
国内の野生動物について何となく思うこと(クマの出没)

海では、環境や経済の視点から、クジラとマグロの生息数関係が割合新しい話題になっているようだ。それほど大きな関係ではないが、山の関連として、私にとって身近な話題を中心に少し考えてみたい。
先ず、真偽は専門家にお任せするとして、例えば、動物の生息に関する話題は、2006年12月の新聞記事である。今回は、生息域が広がっているとも言われているクマの話題を考えてみたい。
【2007年6月追加記事:昨年に続いて2007年6月の新聞記事で奥多摩から八王子近辺の目撃件数急増状況が報告されました。】

● クマの話題
さて、最近、里に現れるクマの話題が多い。ツキノワグマがワシントン条約の対象となっている希少野生動物などというのは、知っている人も少ないだろう。
ところで、私も、5月の上高地〜徳沢の間の見通しのよい場所で、間に小川があったとはいえ凡そ50m程離れてクマと並行して歩いた。30年以上山の遊びを続けているが人の目を気にする素振りなく歩くクマに出会ったのは初めてである。
まして、里に堂々と姿を現すとは、きっとクマの世界もこの数十年の間に「何か」が大きく変化しているのでしょう。
なお、八王子で見かけられたとの新聞記事は「ホントカナ〜」という気がする。少なくとも私は、これまで、奥多摩にいると言われていたのを知っているが、奥多摩から離れた八王子での出没は聞いたこともなく、長年、八王子の裏山を走り回っている中で痕跡すら見たこともない。
いろいろ考える前に、先ず、相手を知る意味でクマの一般的プロフィールを振り返ってみましょう。
もちろん、哺乳類で、肉食性〜雑食性までいて、例えば、最大の白クマ(ホッキョクグマ)は肉食ですし、ツキノワグマは雑食性(木登りが得意で、クマ棚といった木の上のベンチを作ります)。
凡その大きさは、白クマが600〜800s、灰色グマ(グリズリーベア)500〜700s、黒クマ(ブラックベア)250〜300s、エゾヒグマ150〜300s、ツキノワグマ80〜170s、最も小さいマレークマ60s程度。最も人気のがあって、強いのは白クマです。
植村直巳さんは北極点行でもキモを冷やしていますね。そして、映画などでよく知られ、凶暴の代名詞のように紹介されるのはグリズリーですね。また、極北の自然と人々に愛着を持ち、才能を発揮していた星野道夫さんが1996年8月8日に不運にもカムチャッカ半島のクリル湖で逝ってしまいましたが、彼を襲ったのはヒグマでした。なお、星野さんは、ヒグマの間近で仕事を続けていたことから、ヒグマの習性を最もよく知っていた一人であったはずです。
そのような人が命まで落とすこともあることから、クマが一般的に怖い存在であるのは当たり前ですね。
(白クマは、地球温暖化の影響で、今世紀半ばに三分の一に減少するとの推計がある。・・・・・)

● 国内における最近のクマの出没を考える
国内には、ヒグマとツキノワグマが生息している。これ以降は、北海道に住むヒグマではなく、本州、四国、九州に住むというツキノワグマを「クマ」と略します。
クマの出没は、人々に不安を与えている。その出没が人家に近ければ、駆除を考えることになる。
毎年多数のクマが駆除の対象になっている。それでも、最近、里近くで多くの目撃情報があって、その情報は減る傾向がないように思える。
唐突な話題ですが、青森のリンゴ農家の木村秋則さん一家が食うや食わずの苦労の末、無農薬栽培挑戦8年後にリンゴ花を咲かせ、味の良いリンゴの収穫を達成したのは、自然の力を信じた結果でした。それ以来、リンゴの木は、毎年たわわに実をつけているそうだ。
木村さんの「育てない、手助けするだけ」の言葉が私の心に残っている。
既存の栽培方法を続けることは大きな損失もなく、それを変えようとすれば、通常、一時的な収穫の大きな下落になる。ましてや無農薬など、短期的に見て、余りに非効率な栽培方法となり、多くの人は結果に困惑するだろう。
一般的に、私のような人間は、長く我慢できない。だから、諦める。だから、環境に優しくと言っても長いスパンでの成果を待てない。
クマの出没を見て、これまでの人間側の考慮すべきだった何かが思われる。
1.駆除に対して、保護の声
人間の活動には、作用、反作用があり、極端になると相容れない立場の対立ともなる。
人身被害や農作物の被害がある人々は、当然ながらその駆除を望むし、愛らしい小熊を思う動物愛護団体の人々はその保護を訴える。双方の心情は、理解できる。
例えば、双方の思いを反映した対応として、捕獲した「クマ撃退スプレー」(トウガラシエキス/カプサイシン)を鼻面に噴きかけてから放逐する方法があります。しかしながら、ある調査によると、遠くへ去るのではなく再び捕獲された近辺で行動する事例があるようです。「いじめ」の議論が人間の世界であるようですが、いじめられれば、恨みをもつのは自然でしょうし、次のクマの行動が気になります。
また、保護の事例として、クマのためにドングリを運んであげる活動があります。私は、決して否定する訳ではないのですが、何もクマだけが喜ぶ訳ではなく、地面にあればイノシシ等も喜ぶかと思います。どちらにしても、双方共に優しさからの対応と思いますが、他にもっと有効な対策はないのでしょうか? (山へ行く私が傍観者のように言うのは、努力している皆さんに対して失礼と思っています。ご容赦ください。)
2.一朝一夕に効果が望めない保護の方策
かなり乱暴ですが、クマが札幌、仙台といった都市に出没する日本の環境は、まだまだ捨てたものではないですね。しかしながら、野生のクマが安心して住める環境は動物園のような所ではなく、当然ながら、人目につかずに快適に住める森の存在でしょう。そんな森が国内にどの程度残っているでしょうか?
何もクマと森と人の共生といった限定したテーマではなく、人と野生動物の「緩衝地帯」がある自然を残す、あるいは復活させつ知恵があればいいですね。
地球温暖化のためかクマが好きなブナ、クリ、ミズナラ、コナラの不作で里へ降りてくるとの分析があるようですが、東北のマタギの人たちの話を聞くと、それだけではなさそうです(マタギの話はこの後お伝えします)。
クマが住める森とは、林業政策での画一的な植樹の山様ではなく、様々な木の実が生る森林です。近年、産業としての林業が衰退して森林が荒廃し、その荒廃の煽りで自然林が荒れているとの論があるようですが、逆ではないでしょうか?
荒れたおかげで、ツタ類が繁茂しはじめ、山葡萄やら様々な実が出来やすくなるような素人なりの推測があります。産業政策は兎も角、何十年かかるか分りませんが、着実に自然林を形成し始めているのではないでしょうか?
また、生息数ですが、一定面積の森が広がれば、一定数の生息数に自然の調整力が働くかと思います。今は、確かに住む最適な環境領域が狭くなっている現況の中、そのために餌を求めて固体が拡散している状況のような気がします。
ところで、観光目的で屋久島のサルを鹿児島県の小島・沖ノ島に移住させ、一時、餌付けの効果もあってか70匹程まで増えたのですが、観光目的の目論見が消えた今は自然にまかせ、40匹程度になっているようです。どんな観光政策があったか知りませんが、一面でそのサルたちが教えてくれているのかもしれません。
いずれにしても、例えば、ケーキの味を知ったクマが夜な夜な軽井沢の住宅地に現れるようになったのは事実ですので、地球環境や、様々な政策を考えるのと平行してヒトを含めた生き物としての心情、性も再考したいですね。
3.マタギは欲張らずクマを狩っていました
マタギの家に生まれ、その文化を伝える目的で設立した<B>白神マタギ舎の代表の工藤光治さんの話</B>を傾聴したい。
クマを熟知しているマタギの目から見ると、クマが里に姿を現す状況は、やはり寂しい環境への人的影響が強いと思われるとのことである。
クマは雑食性で、時にカモシカなども食べ、希に共食いもあるが、主に山野草や木の実を食べていることはよく知られている。白神ではブの実が不作でも、その他の木々があり、ミズナラの実や山葡萄、サルナシなどが豊作な年もある。
つまり、白神では余程の餌不足がない限りクマが里に下りることはなかったことから、最近、各地の里に余程のことがあるのだろうということに素直にうなずける。
そのような白神でも昭和61年頃の大冷害時には、里にクマがよく下りてきて有害駆除の対象となった。その数は、秋田県で450頭、青森県で150頭の届出であった。
最近、里に下りてきたクマが人を襲う問題について工藤さんの感想としては、「人間がどんどん山奥に入り、クマが人に慣れてきたことが考えられる。若いクマは、怖さ知らずで、食べ物があれば人の庭でもどこでも来る。人間があまりにもクマの領域に入りすぎた結果と思う」と人の影響を語っている。
私も単純に同感である。例えば、軽井沢で美味しいケーキの味を知ったクマ、キャンプ場のゴミ捨て場での残飯の豊かなメニューを知ったクマの出没が物語っている気がする。
また、工藤さんの言うように、里山での人工林の荒廃で薮と化した場所は人家の裏薮を人とクマの境界線へと変化させている</B>との推測はうなずける。
奥山をクマの住み難いスギやヒノキの人工林に変え、その後、皮肉にも人工林の荒廃で薮化した広葉樹林へ移行する過程の環境がクマの里山への生息領域を広げていると単純に考えられる。
もう一つ、マタギは狩猟を生業としていることから、獲物が次の年も、そして次の年も恵みとしてあることを願っています。彼らは一日中歩いて深い山奥での猟をして、自分たちが背負って帰れるぐらいしかクマを獲らないということです。多くても年に6〜7頭ぐらいしかとらないということです。マタギは山からの恵みをいただくという気持ちでクマ狩をしていると工藤さんは語っています。かって、クマは近年のように里で多く見られなかったし、当然ながらクマが少なくなることもありませんでした。
また、マタギのクマ狩は春に行います。その理由としては、冬眠期間中の絶食のため、肝に胆汁が溜まり、この時期に肝が最も大きくなり、肉や毛皮も冬眠あけの1週間前後に商品価値があると語っています。つまり、昔からマタギは無益な狩猟をしていなかったわけで、行政が狩猟制限をしなくとも生息数のバランスは保たれていたといえる。行政側は、本気で白神の世界遺産地域を保全するならば、もっとマタギの皆さんの話を参考に環境政策を新たな視点で検討すべきではないかと思える。
いずれにしても、工藤さんが語るように、「クマによる人身事故が増えたのは里山の荒廃の結果である」ということに同感である。
4.冬眠について
クマの冬眠と狩猟の話について前段で触れたここもあり、若干の話題を提供します。先ず、冬眠(Hibernation)とは、「季節的な低温に対して、動物が摂食や運動を中止して代謝活動を著しく低下させた状態で冬季を過ごすこと」と一般的に定義されています。
冬眠をする動物としては、ヘビ、カエル、昆虫などの変温動物で珍しくもないが、恒温動物では、リス、コウモリ、ヤマネなどがスヤスヤ眠ります。大きな動物ではクマがあげられますが、これは、ウトウトと寝ます。分りやすいこととして、例えば、体温についてだけ見ると、コウモリは5℃、ヤマネが0℃の超(?)低体温であるのに対して、クマは数℃以内の低下といわれています。
人間に目を移すと、今年10月に六甲山の下山中に遭難した30代の男性は、発見されるまでの23日間も冬眠状態だったと伝えられている。発見時の体温は22℃だったとのことである。これまでの仮説では、体温が30℃以下の生存、10日間以上の絶食での生存はいずれも不可能といわれていたことから、驚異というしかない。もう1件、4月に長野の山で雪崩に埋もれた20代の男性が、心肺停止確認から4時間後に蘇生し、2ヶ月間の治療で日常業務に復帰したと伝えられている。
人間も結構強いものと感心している。でも、やはり、一般的には、いわゆる低体温症として直腸温度が33〜30℃で無関心、30〜25℃で錯乱・幻覚、25〜20℃で昏睡・仮死に短時間で至ることから、やはり驚異というしかない。
最近は、医学的にも低体温療法の検討が進められ、脳低温療法、がんの治療の領域でよく聞かれるが、科学的アプローチについては、専門書を開いてみたい。

 2006.9.17
K2登頂の新聞記事を見ながら感じたこと

K2登頂を達成した東海大学山岳部の話題が新聞に取り上げられている。最近の登山の話題が中高年に関る話題が多い中、若者の活躍であり、それは、それで嬉しいことではある。
ただ、単なる私見であるが、マスコミ、というよりも日本の文化の捉え方が昔と同じなんだなと少し寂しい気がする。新聞は、「世界第2位の高峰」とか「最年少○○」とかを相変わらず強調している。登頂した若者は、自らの情熱を懸けてK2に向かったと思う。単なる順位を競う娑婆の煩わしさと別の視点で論評してもらいたいと思えるのは私だけだろうか?
K2は、1954年にイタリア隊のA・コンパニョーニとL・ラツェデリーが南東稜(りょう)から初登頂している。その後、初登頂50周年の2004年には、イタリア隊をはじめ各国から22隊が頂上を目指し、52人もの人が登頂したといわれています。既に、登れたか否か別にして、1000名近い人々が登頂を目指して訪れているらしい。
しかしながら、登頂の難しさではエヴェレストを凌ぐといわれ、「黒いピラミッド」とも表現されるように変わることなく荘厳な姿はクライマーの憧れる山にちがいない。
「クライマー」と表現したのには、少しばかり拘りがあるからです。
先ず、歴史を簡単に振り返って見る。ヒマラヤ高峰の登頂は、1950年仏隊のアンナプルナT峰、1953年英国隊のエヴェレスト、独隊のヘルマンブールによるナンガパルパット単独登頂、そして、1954年伊隊のK2である。
まだまだ8000m峰初登頂は続くが、日本は、1955年仏隊のマカルー、英国隊のカンチェンジュンガの翌年、1956年にマナスルに登頂している。同じ年にスイス隊のローツェがあり、1964年中国隊シシャパンマでほぼ初登の夢は終了している。
その後、私が若かった懐かしい1970年代になると、バリエーションルートを目指すヒマラヤは壁の時代となります。先ず、1970年の英国C.ボニントン隊のアンナプルナ南壁と独国K.ヘルリヒコファー隊のナンガパルパット・ルパール壁です。
そのような状況の中、日本でクライミングに情熱を傾けた若者の多くは大学山岳部ではなく、社会人山岳会で腕を磨いた面々でした。所謂、クライマーとしてリードしたのはそういう面々でした。
彼らは、経済的にも必ずしも恵まれた生活をしていたわけではないのにもかかわらず、谷川岳や穂高での先鋭的なチャレンジを活き活きと行っていました。半面、大学山岳部は、海外の登山に向かいましたが、技術的な進展が鈍かったように思います。暴論かもしれませんが、若者の情熱は、やや色あせ、それも一因となって大学山岳部は衰退の道をたどったのかもしれません。
例えば、皆さんは、長谷川恒夫、森田勝、山田昇をご存知でしょうか?
先ず、森田勝さんは、1967年に雪崩が頻発して発生するため冬季登拳は不可能と見られていた谷川岳滝沢第三スラブ(三スラ)を、長谷川恒夫さんは、75年、谷川岳一ノ倉沢に残された最後の冬期未踏ルート・滝沢第二スラブの初登攣を単独で行っています。
当時のクライマーのレベルの向上と情熱の発露に大きな影響があったものと思います。我々仲間うちでは、マサルさん、ツネさんと親しみを込めて呼んでいましたが、性格は似て非なるものだったはずです。特に、マサルさんは強烈な人で、希望したアコンカグア参加の費用が工面できず、それが引き金となって三スラに向かわせ、その計画が理由で所属の山岳会から脱会を申し渡され、今回話題のK2では、1976年日本山岳会隊の二次アタックメンバーに回されたことで下山してしまいました。次に、もう一人、8000m峰に12回登頂した山田昇さんは、1985年7月にK2、10月にエヴェレスト、そして厳冬の12月にマナスルを連続で無酸素登頂しています。3人はいずれも社会人山岳会で腕を磨きました。
無酸素登頂といえば、やはりメスナーです。1970年のナンガ・パルバット登頂後、1986年 (8462m)、ローツェ(8516m)まで人類史上初となる8000メートル峰全14座完全登頂(K2は1979年)の実績を積みました。1978年には、エヴェレストで人類初の無酸素登頂を成し遂げ、1980年には無酸素単独登頂を成功させています。その他にも多くの先鋭的な実績をのこしていますが、1990年に徒歩で92日間をかけて世界初の南極横断を行っています。
また、単独登頂の端緒といえば、やはり、ドイツ隊が執念で望んだナンガ・パルバットのヘルマンブールです。個人的なことですが、20歳前後の頃のパートナー(グランドジョラスで逝った)がいつも語っていたナンガ・パルバットをカシミールで遠望した記憶が湧いてきます。
そして、世界のクライマーのヒマラヤでの活動は、アルパイン・スタイルでの無酸素、ソロの潮流へと向かうことになります。一部、テレビで活躍中の男女「登山家」は、それはそれで登山の啓蒙家としては認められますが、「ピーク・ハンティング」、大量の人員と物資を使っての大規模登山「ポーラー・メソッド」であり、クライマーの域では、ほとんど意味のない「登山家」と言えるかもしれません(少し過激で失礼なもの言いかもしれませんが、情熱の一側面からのもの言いとしてご容赦ください)。単にピークに達することに喜びを持つのではなく、より困難な壁のルートを求めるクライマーに敬意を表して、一律に「登山家」と自称する人々にどことなく共鳴できないこの頃です。かく言う私はネイチャーガイドを目指していますので、「登山家」というよりも「単に広く自然が好きな人」との見方ならば、異議は唱えるつもりはないのですが・・・
現在は、お金と時間、ある程度の健康があれば、商業ベースの「○○ツアー」で酸素ボンベ、固定ロープ、サポート要員に守られて8000mでも登れる状況です。
ある「登山家」は、私はスポーツオンチでしたと公言しつつマスコミに顔を出していますが、それは、やっぱり、「単に広く自然が好きな人」の山登りであり、しばらくの間は、単純に壁への情熱をかけているアスリートのクライマーに敬意を払ってあげてもいいのではないでしょうか?
まあ、それはそれとして、次に登場するのが、山野井泰史さんでしょう。彼については、幾つかの書籍等に譲るが、美しいルートを求めて登るソロクライマーと思います。普段はギラギラした人間の物質的、感情的欲望を発散するでもなく、求道者風でもなく、極自然体で攀じ登ることに思いを馳せるクライマーといえます。K2についていえば、2000年に南南東リブ無酸素単独初登しています。登っての感想は、「空は宇宙に近い紺色だった」と表現しています。
皆がチャレンジャーですが、「冒険心」がクライマーの心のときめきは、まだまだ後世代に受け継がれていって欲しいものです。
K2に懸けた東海大山岳部の若者に敬意を表しつつ取り留めもなく書いてみました。ついでに、K2の命名、森林の減少、入山料の情報を幾つか簡単に記述しておきます。

● K2の命名
インドの測量局が1856年からカラコルムの測量をはじめた際に、無名の山にカラコルムのKを頭文字とした測量番号を付けました。K2以外の山については名前がつけられたり、現地の名前が採用されたりしたが、K2だけは測量番号がそのまま山名となりましたがゴッドウィンオースティン(MtGodwin Austin)としても知られています。
<消えたK>
K1 -マッシャーブルム
K3 -ブロード・ピーク
K4 -ガッシャーブルムU峰
K5 -ガッシャーブルムT峰

● 森林の破壊
諸外国に比較して日本の森林率は大きい割合である。それでも年々減少し、正確な数値は分らないが6割程度である。一方、ネパールは深刻で、1960年代は45%から既に3割以下となっている。ネパール全体のエネルギー需要の75%が薪といわれ、都市は別として、農村ではほとんど薪を使用している。ある調査では、年間546.2sの薪消費量との報告がある。生活様式を守りつつ、森林の育成に尽力している日本のNPOが活動していることも聞いているが、地球的規模で国際社会が本腰を入れるキャンペーンが必要な気がする。

● 入山料
ヒマラヤの8000m峰となると入山料も結構します。現地の環境、生活に使われるならば、それもよいかもしれませんが、一介の学生や庶民には高額ですね。だから、旅行会社などのツアーや新聞社やテレビ局のスポンサーの力に頼ることも多いのでしょうね。
なお、1960年代からネパール政府の外貨獲得政策の一環としてトレッキングが宣伝され、盛んになりました。ネパールでは、6000m以上を目指す登山と、それに満たない山々の道を歩くトレッキングを区別して入山料を徴収しています。

参考:ネパール登山規則の改定(2002年5月7日)
               エヴェレスト(8,848m)の登山料は以下のとおり
◎ノーマル・ルート(南東稜)は登山隊の人数により1名(2万5千ドル)、2名(4万ドル)、3名(4万8千ドル)、4名(5万6千ドル)、5名(6万ドル)、6名(6万6千ドル)、7名(7万ドル)となる。それを超える場合は12名を限度として1名につき1万ドルずつ加算される。それ以外のルートはこれまでどおり1隊7名まで7万ドル、これを超える場合はノーマル・ルートと同様、隊員が1名増えるごとに1万ドルが加算される。
◎これまであった登山許可のシーズン制が廃止され、一年を通しての登山が可能になる。
これまで必要とされた、各国の山岳会(協会)からの推薦状は必要なくなる。(日本では日本山岳協会が推薦状を発行していた)
◎ネパール人スタッフの賃金・報酬は1日につきサーダー400ルピー、高所ポーター&amp;ガイドは350ルピー、ポーター300ルピーとなる。
◎今後16歳以下の登山者は許可しない。
◎仮登山許可証はエヴェレストの場合は登山料の5%、他の山の場合は登山料の10%が支払われた段階で発給される。
◎これまでサガルマータ国立公園内で実施されていたゴミ処理のための供託金制度をネパール全土で実施する。供託金の額は山の標高と地域により500ドルから4000ドルの範囲になる。
◎登山料を支払った後で目標山岳の変更をする場合には、同じエリアの同程度の標高の場合には登山料を新たに支払う必要はない。